『ゼロで割る』 再読
(2007/9/18)
(ご本人萌え(?)と作品への賞賛はまったくベクトルの違うものなので、文体がふだんと違うことをお許し下さい。
おそらく改稿することになると思いますが、とりあえずの感想文です
)
これは今回読み直して、四年前に読んだときはおそらくしなかった読み方ができた。
そのときはうかつに読んでいたので、おそらくチャプターナンバー(に見える)の役割も見落としただろうし、
挿入される数学逸話も、頭の中の物語に充分には取り込めていなかったと思う。
(今回も充分ではない。自分の数学的感受性の限界の問題だ)
その証拠に、この物語は印象に残っていなかった。
実際、今回気がついたのは読み終わってからだ。
正直「え、これで終わり?」と思ったのだ。そして最初から見返して、その構造にやっと気づいた。
最後のチャプターナンバーは9a=9b。
それだけで涙が出た。
絶望的であると同時に、とてもやさしい物語だ。
あらすじを書いてもおそらく意味がない。もちろんストーリーにはなっているのだが。
これは文章…というか、小説という形態を使って書いた譜面、あるいは石庭みたいなものだ。
石庭ではオーバーラップの効果がうまく言い表せないので、譜面としてみる。
この方法自体はよくあるものだし、自分もいつも取り入れようと努力している。
だけどたいていは、譜面の構造と実際の音色のどちらかに比重が偏るものだ。
世に出ている数でいえば、音色のほうに偏るものが圧倒的に多いと思う。
これは遠慮してそうするのではなくて、それしかできない、考えつかないというのが実際だろう。
そして読者が小説に期待するものも、たいていはそれだ。
(自分の書いたものの場合だと、今までで一番マシだったものでも譜面には程遠く、
せいぜい波線が複数平行して書かれたグラフにすぎない。
紙には穴がたくさん開いているし、出る音は子供が弾く音階練習並みだ…)
個人的なボヤキはともかく、この作品を読んだ感じは、音楽に似ている。
というか、短編小説だと思って読んで、読み終わったときに振り向いたら音楽になっていた。
二つの旋律とベースに流れるコード、伴奏のハーモニーがとても美しい。
ふたつの旋律と伴奏のラインは、くっついたり離れたりしながら流れ、
譜面と言うと平面的なようだが、その軌跡は立体的に美しい…
(…これはちょっと筆が走った。軌跡の描く図の美しさでは、これより他の作品のほうが強烈だ。
この作品に関しては、石庭の比喩のほうが近いかもしれない)
いずれにせよ、作品によって最後に出来上がる立体図の形がまったく違う。
一点ものの職人芸だ。
しかも、すごいのはこの「立体譜面」の構造だけでなく、もちろん出る音自体も美しいことだ。
数学ネタで登場人物は学者の夫婦、などと聞くと、ある種の覚悟、あるいは期待をする。
だが、この作品ではそれは裏切られる。
この作者は感情のひだの描写においても成熟している。
なので、(四年前の私のように)構造の美しさを拾い損ねたとしても、
ストーリーをたどって心理に分け入ることができる。
「普通の短編小説のように」、奏でられる音自体を味わうことができる。
この二重構造。
二重というより、両者をぴたりと一つにできるのがこの作者の独自性であり、強みだろう。
おこがましい言い方だが、この人の作品を読むときは、普段するような「手加減」をする必要が無い。
というより、いかに日頃無自覚に「手加減」を強いられているかに気づかされるのだ。
(手足を縮めて小さな浴槽に入り、それでも充分いい気持ちだ、というわけだ)
…それどころか、自分の感受能力の限界を悔しく思う。
数学の「美しさ」に対する感受性が自分にあったなら、たぶんより大きな…
あるいは別種のインパクトが加わったもの…
つまり「音数」が違う音楽を聞くことができただろう。
普通やりやすいのは、無味乾燥な「カタイ」もの、「無機質な」ものに、「やわらかい」感情や意味を読み取ったり、塗りつけたりするたぐいのことだ。
この人は逆をやる。
感情や意味を、一見「無機質な」パーツで記述することに基盤を置く。
なので、つねに効果的な(自分のような読者にとっては目新しいタイプの)二重奏が根底にあるのだ。
SF小説というジャンルでは、たぶん「無機質な」パーツの組み合わせ構造の妙だけでも成立する部分があると思う。
けっして「SF読み」ではない自分が魅力を感じるのは、彼の作品がそれに甘んじていないことである。
しかも彼の手札はこれだけではない。
あるインタビューで、歴史や言語学の専門家と誤解したような質問をされ、
彼は専門家ではないと説明している。作品のためにリサーチしただけだと。
となれば、今後のモチーフも興味次第で無限になる。
創作作品は多かれ少なかれリサーチをして作られるものだが、この作者の作品から受ける印象はあまりに堂に入っている。
情報小説であれば、リサーチして書かれたことが匂うものだが、彼の場合はそれ自体を見せるのではない。
それを道具に使って、特殊な情緒なりストーリーの構造の美しさなり、「それ自体が魅力的」なものを見せるので、
道具となった専門知識については、当たり前のように身について見えるのだ。
(物理や数学への「愛」が血肉になっているのは明らかだが、作品はそれ以外の分野を取り込んでいる)
…ようするに、丁寧に作られているのである。寡作なのは必然だろう。
「書くことは自分にとってハードだ」というのも頷ける。
こういう作品を読めるのは、贅沢だと思う。
ものすごく贅沢な嗜好品だ。
稀少性は、もちろんその価値の一部だ。