テッド・チャン情報メモ

"The lifecycle of software objects"感想
(2010/12/12)

英語版のほうをようやく読了しました。

データアースという電子空間(セカンドライフみたいなもの?)で生きる、ディジエントと呼ばれるソフトウェア生命体の一人ジャックスと、彼を育成するアナという女性、アナの同僚デレク、デレクの所有しているディジエント、マルコとポーロ…を中心にした、バーチャル生命体と人間の関わり方に関する物語でした。

ディジエントは最初、見かけのかわいい、仮想空間で飼うペットのような位置づけで開発されますが、しだいにその存在が、アナやデレクにとっては人間並、あるいはそれ以上のものになっていきます。コンピューター業界の流行り廃りが彼らの周りの状況をどんどん変えていきます。

…正直にいいます。「…えっ、これで終わり?」と思いました…。(^ ^;)
バーチャル空間の生命体倫理と生身のユーザーのかかわり合い、というテーマでは、昔、内田美奈子さんのコミックで『BOOM TOWN』という傑作があったので、どうしても比べてしまい…。
それは別にしても、「アイデアと情緒の落としどころがぴったり一つになる」という、「いつものチャン節」は感じられなかったのが、ちょっと残念。じつは似たような感覚は、以前ほかのチャン作品でも味わったことがあります。『予想される未来』や『ゼロで割る』(最初に読んだとき)です。(ということは、『ゼロで割る』みたいに何か読み落としている可能性も…?)
英文なので読むのにちんたら時間かけすぎたのも原因かも…だとしたら自分のせいもありますね。

とはいえ、読んでる間はページごとに思考実験の連続という感じで、触発されるという意味ではてんこ盛りでした。ただ、それが大部分キャラクターたちの議論として提示されるのが、個人的には「まだ物語になってない」印象でした。アイデアがそのまま書かれているような部分が感じられて…シーンに構成されきってないというか?議論止まりで、出来事に至らないのです。自分が古い映画好きだからこう思うのかしら…。小説だとこれでもいいのかも。…でも、物足りなく思うのは実感なんですよね…。
(「チャン作品だから」と、期待しているレベルがもとから「普通より高い」ことは影響していると思います)
アメリカ人は法廷ドラマを好むそうですから、議論自体で楽しめるのかもしれないな、とは思います。けれど、自分はちょっと物足りなかったです。

それと、根本的なところで、設定に入り込めなかった部分もあります。ディジエントは「自分の意志を持っている生命体」として描写されています。それがどうして可能なのか、が、「ニューロブラスト・エンジン」というものに依存しているようなのですが、そのへんの具体的な説明がないので、イマイチイメージしにくい。でも「感情があるようにリアクションするようプログラムされているキャラクター」とは違う、ようなのです。ここらへんは有名なチューリング・テストをホーフツとさせる要素なのだと思いますが、それが要素のままに見えました。そこがなんというか、「まだあらすじ段階」みたいな印象です。SF小説では、こういう要素を本歌取り的に織り込むことで、充分喜んでくれる読者層がいる…ということは想像できるのですが。…いや、チャン作品だから、やっぱりそれ以上を期待しちゃうんですよね…勝手な期待ですが。

それと、描写を見る限り、データアースに入るユーザーはコンピューターのウインドウを通してそれを見ています。BOOM TOWNのような「感覚変換装置を通して、実際に空間内にいるように体験する」ものではない。後半では、その世界でディジエントに売春をさせるという可能性が提示されるのですが…それがどーもしっくりこない。このシステムを見る限り、たとえそれがなされたとしても、ユーザーは自分のアバターとバーチャル空間内のキャラクターがいちゃついてるのを「画面で見る」だけ、としか受け取れなかったのです。はたしてそんなもんにお金を払う人いるんだろうか?というレベルで素朴な疑問(?)が。

…物語のなかで問題にされてるのはユーザーのことではなく、あくまでディジエンツへの影響なんです。どーも、自分の目線がユーザー寄り、描かれていることはディジエンツ寄りという距離感が解消できなかった感じです。…ああ、セカンドライフもやったことないし、ゲームもやらず、たまごっちさえ挫折…という自分には入り込めない世界なのカシラ。議論もディジエント所有者同士のものがほとんどなので、立場の違う人との具体的な議論が読んでみたかった気がします。たとえば、アナと恋人のカイルや、デレクと奥さんとか。
(両方とも、パートナーが自分ほどディジエントに共感を持っていない、というシチュエーションで、意見が平行線だったということしか触れられないのですよ。まあこれはこれで、人間関係そのものへの洞察が味わえるのですが)

ただ、提示される一つ一つの「可能性」はすごく興味深いです。以前チャン氏のインタビューに対する感想で、「なぜSFでは経済という要素が切り捨てられてしまうんだろう」みたいなことを書いたんですが、今回の作品には、経済のファクターががっつり取り入れられています。(その分、「SFらしくない」という印象を持つ読者さんも多いかもしれませんが)

提示されるそれぞれの可能性が「実現してしまった場合」を、短いエピソードにしてオムニバス風にまとめたら、火星年代記ならぬディジエンツ年代記みたいで面白そうなんだけどなあ…そしたらもっと大部の本になるのになあ…とか、よけいなことを考えてしまいました。もちろん読者としては長けりゃいいってもんじゃないですが、なんかもったいない感じがするんですよ…。うーん、馴染んでいる漫画で例えますと、そのアイデア一つで何ページもドラマを仕立てられそうなのに、生(き)のまま4コマ漫画にして半ページ分にしかなってない、みたいな。(ちょっと違うか?(^ ^;))

印象に残った描写ももちろんあります。本筋には関係ないのですが、ユーザーの使うアバターが人間型に限定されてないこと。たしか、えんえんと金貨が降り続ける、という形のアバターが(ワタクシの誤読でなければ)出てきて、うわー、新鮮!と思いました。そういう人間型でないアバターを長時間着ると、感覚も変わるだろうなー、と。

泣けたシーンもあります。ジャックスたちが、遊びながら斜面ででんぐり返りをすることを覚えてはしゃぐところ。ある問題が起こって、その記憶を含む部分より前まで記憶が巻き戻されます。そうすると、体で覚えたこともなかったことになってしまう。ディジエントの本質が現れてる気がしたんですが、この要素が後半では絡んでこないのが、ちょっともったいない印象です。

あと、ディジエントは経験によってしか成熟できない、というあたりの議論。物語としてというより、自分の身に置き換えてグサリときました。
知識として知っているだけで、体験なく「わかったつもり」になってるものが、自分の脳味噌のなかでどれだけの比率を占めていることか。もしかしたら、意識しているレベルでは、実体験のデータ量より多いかもしれません。(だた歩くだけでもデータに換算したら膨大な量、という意味で考えればぜんぜん変わりますが、あくまで意識できるレベルで)

とにかく、素朴な疑問部分を含めて、自分が英語を誤読している可能性もあるので、これから翻訳を読んでみようと思います。
(間違って読んでいたら、この感想もあとでしこたま修正を入れることに(汗)なりますが、いちおう今の段階の感想を書き出しておきたかったので、邦訳読む前に書きました)

 

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