『スーパーマンリターンズ』 Superman Returns 初回感想文   


オマージュ映画…ですね。いい意味で。監督が旧作のファンでいろいろこだわっているらしい、という情報は事前に仕入れていたのですが、これほどとは思いませんでした。リチャード・ドナー版とほぼ同じシチュエーションが、ほぼ同じ順番で出てきちゃう(笑)。まずはオープニング。(文字の特殊効果の方向は逆だった気がしますが…「リターンズ」だからかな?)、レックス・ルーサーの図書室(情報収集もネットでなく紙の本!(笑))、飛んでいる飛行機を救う、ロイスとの空中デート、クリプトナイトで力を奪われたスーパーマンが溺れる…そして細かい台詞の踏襲、ラストシーンで地球の上を飛ぶスーパーマン(アングルが左右逆な以外はまったく同じ)…などなど。最後にカメラ目線で微笑んでくれるのかと思わず期待しちゃったんですが(笑)、それはありませんでしたね。正しいと思います。今度のスーパーマンはそういうキャラじゃないし、ストーリーのトーンも違いますもんね。…まあ、あったらあったで嬉しかったと思いますけど(笑)。

とにかく、ブライアン・シンガー監督が、「これだけは外せないんだよ~♪」と身悶えした(?)のが目に見えるようで微笑ましいです。たしかにリメイクではなく続編なのですが、見た印象は、熱烈なファンがすっごいお金をかけてリメイクした、という感じ。しかもスケールアップの度合いがハンパじゃない。飛行機だけでなくスペースシャトルまで救うし、スーパーマンの溺れる場所はプールから大海に…。そして特撮技術の進歩によって、ド迫力を持った描写の数々。目で弾丸を跳ね返すところとか、着地して地面にめり込むところとか、スピード感と重量感のメリハリが圧巻です。特撮でのディテール描写は満点、いや、満点以上です!

あえて言えば… 難があるとしたら脚本でしょう。後半は特にちょっとごたついた感じで、見ていて違和感を感じるところが多かった。矛盾してても荒唐無稽でも、劇場を出るまでの間騙しとおしてくれれば文句はない方なのですが、見ているときにいくつか「んー?」という感じがしたのが残念。
たとえば、 ロイスの息子のバカぢからは船の中でピアノをすっ飛ばした時点で観客にわかってるのに、そのあと閉じ込められてからドアを開けるまでの焦らし方はカットつなぎがヘンだとしか思えません。坊やは「ごめんなさい」って言ってたけど、それまでママが力を使うことを禁じてたのかしら?それにしてはママが「力を貸して」と言うのは変だし…。

スーパーマンが病院に担ぎ込まれるのにもちょっと吹きだしてしまいました。針が折れちゃうとかの描写はよかったですけど(笑)。あと、病院に向かうロイスにジミー・オルセンが「野次馬だらけだから気をつけろ」って見送ってしまうのも妙で…。デイリー・プラネット社だって取材をしているのが当然。あんた、こんなとこでなにしてんの!と思わず心の中で突っ込んでしまいました(笑)。

ここではロイスも「スーパーマンを取材する記者」でなく完全に親族の立場(笑)になっちゃってて、印象が平板になってしまいました。前半で、編集長がロイスにスーパーマンの取材をしろとハッパをかけるところからしても、彼女とスーパーマンの内縁の関係(?)を察しているのは、あの時点でも婚約者のリチャードだけのはず。ロイスとリチャードがスーパーマンを助けたことも、本人たちが言わない限りは誰にもわからないはずですし。(言いふらしてるとは考えにくい)ところが…あれでは全米公認ではないですか…!(笑)私なら心配しつつ取材する流れからもっていくけどなあ…などと生意気にも思いましたです。でもシンガー監督は好きなので、逆に意図を聞いてみたいですね…。どこまでがバレててどこからが秘密になっているのか、という線引きがあいまいでした。スーパーマンの入院中、クラークがいないことには社内の誰一人気づかなかったようだし…(笑)。

いちおう、ロイスとスーパーマンは和解した形で終わりますが、見たあとになぜか爽快感がないのが残念でした。ロイスの子供がスーパーマンのご落胤なのは始めから見え見えでしたし、おおっぴらにカミングアウトできない息子ができたことで、スーパーマンもアメリカ映画の典型的主役…仕事はできるけど離婚歴あり・子供とは月に何度かの週末を過ごすだけ…という系統の一人になってしまいました。(離婚じゃないけど構図は同じ)
ブランドン・ラウスくんがとても若々しいので、ちょっとこの設定が馴染まない感じがします。まだ落ち着いちゃってませんよ、このスーパーマンは。ていうかもったいない(笑)。高校生レベルでドッキドキ♪みたいなところも見てみたかった。恋敵だけ出して子供の設定はなしにしてもよかったんじゃないかなあ…。(最後のスーパーマンⅣって覚えてませんけど、そういう終わり方でしたっけ?Ⅱで関係しましたけどそのあとなかったことになりましたし。失踪する直前まで関係があったとしたら、子供の年齢から考えて、スーパーマンの鈍さはむしろ不自然…)クラークがロイスやその婚約者リチャードに対して、無理をしてにこやかに接する…というような葛藤の描写があまりないので、終盤でスーパーマンがリチャードの手をとって救出するとき、スーパーマンが見せるちょっとした躊躇…これが活きないんです。これは新人ラウスくんの演技力に帰すべきかとも思えますが…でも超絶美形だから許そう(笑)。(クリストファー・リーブだったら違うアプローチでできたはず…と空想してしまうのはお門違いですもんね。どうしても考えちゃうけど(^ ^;))

ロイスにしても、クラークに冷たく当たるのが、彼とスーパーマンを同一視しているように見えてしまうんです。そのあとクラークとスーパーマンの身長が近いことが冗談で終わるので、クラーク≠スーパーマンという認識だと思うのですが、どうもクラークに対しての感情が見えない。たんに久しぶりに復帰した同僚、というには冷たすぎる感じがするし。仕事上の競争関係でもあれば別ですが。…あるいは眼中にない?(笑)少なくとも、昔自分に気があった男性という認識はあるはずですが…うーん、どうもわかりません。クラークの失踪にも怒りを感じているとしたら、かえって何事もなかったようににこやかにふるまって、リチャードとのラブラブぶりを見せつけたりしたほうが、内に秘めた怒りが強調できた気が…ってそれじゃただのいやな女か(笑)。
ここまで来ると「俺ならこう撮る」の域になってキリがありませんね(笑)。


美術はほんとに素晴らしかった。デイリー・プラネット社も設定が現代的になり、レトロ建築とDTP環境の融合したセットは独特の近未来的なムードで素敵でした。天井高いし、ちょっと未来世紀ブラジルみたいな雰囲気も。ハイテクになってもペーパーレスにはならないものなんですよね。やっぱ紙の山がないと(笑)。

現代的設定…ということで、じつはひそかに期待していたのが、ゲイのキャラクターがクラークまたはスーパーマンに色目を使う、というシチュエーションだったんですが…ありませんでしたねえ。残念。いや、できないか、今だと逆に(笑)。90年代だったら出てきたかも、と思います。だってあの顔にあの体!ゲイがほっとくわけがない!(笑)…強いてそういう目で見れば、手作りケーキでクラークを迎えたジミーですが…いや、却下ですね。忘れてください…(笑)。(ジミーもよくわからん人です(笑))

その点も含めてですが、全体にシリアスになっていましたですね。コメディー要素が減ることはなんとなく予想していました。なんというか…今の観客のムードというか、期待されるものというか…ある一定のシリアス度を外すと、徹底的におバカでないと受け入れられないというか…。コメディーを受け入れられる雰囲気というのが乏しい世相です。どこかで、スーパーマン1作目は今だったらラジー賞もの、というコメントを読みましたが、その通りだと思います。時代が違う。今時の気分、というものがあります。そして、シリアスとなるとやたらダークな要素やいわゆる「人間ドラマ」的な要素が大きくなるのも、今の「気分」でしょう。レックス・ルーサーはもはや笑いのとれる悪党ではありませんし、スーパーマンも未婚の息子を持つ男になりました。映画は世につれ、ですかね…。

でもひとつ、 大事なメッセージが感じられました。これもシンガー監督のこだわりかとも思いますがスーパーマンはあれだけ痛めつけられたにもかかわらず、「仕返し」はしなかったのです。ルーサーが挫折した原因は、身内の裏切りと、スーパーマンが「ルーサーのやった悪巧みを処理して元通りにした」ことの余波でしかありません。スーパーマンは「みんなを助ける」ことに力を注ぎ、ルーサー自身をやっつけることなど眼中にないのです。これはリチャード・ドナーのスーパーマンでも特徴的だったことであり、その他のヒーローや映画の2作目以降のスーパーマン自身から、1作目のスーパーマンが傑出している要素でもあります。その点が踏襲されていたのが、やはりシンガー監督はファンだなあ、と思うところでもありました。

ブランドン・ラウスくん、さきほども書きましたが超絶美形ですね♪なんて美しいスーパーマンでしょう!演技は正直もう一歩ですが、お色気はクリストファー・リーブ以上。(タイプが違うということですが(^ ^;))今後に期待です。しかしスーパーマンて…あの体であの衣装はつくづくヤバイですね。ずぶぬれになるのはサービス以外の何物でもないわ…(笑)。クラークのときがまた、それ以上にたまりません。かわいい…はじめから一児の父なのがほんとに残念だ(笑)。写真で見たときの印象はトム・クルーズ系でしたが、実際に劇場で拝見したときは、ちょっとX-MENのときのジェームズ・マーズデンみたいな雰囲気もあるな…と感じたのですが、当のマーズデンが直後に顔を出して驚きました(笑)。思えばX-MENもシンガー監督でしたね。シンガー一家でしょうか。(しかしこれだけの美形二人をキープしているロイスって!(笑))編集長がフランク・ランジェラというのも豪華でしたねえ。

ケビン・スペイシーもユージュアル・サスペクツでシンガー一家。今回はまた怖かった…(笑)。ジーン・ハックマンのルーサーのイメージがあったので、もっと笑いをとってくれるかと思ってたのですが、マジに極悪人でした。細かいギャグはあるのですが、あまり馴染んでませんでしたね。(笑)テンションの浮き沈みを抑えている分よけいに不気味度アップ。そーいうキャラ作りだったんですね。

ルーサーの愛人キティーは、もうちょっと「悪女」のほうがルーサーとのバランスがよかったのでは。あれではちょっとおバカすぎというか、ただの囲われ者という感じでかわいそうに見えました。ルーサーに惚れてる感じもあまりないし、ルーサーもまったく執着してるように見えないし、なぜくっついてるのかよくわからない。リチャード・ドナー版のオーティスに当たるキャラがいないのですから、もう少し昇格して仕事上の存在感(?)を持ってもよかったのでは。(あんまり強い女ばかりでもつまらないか(笑))今回のルーサーはダークで完全にワンマンですね。破滅するとしたら、スーパーマンとの対決でというより、自殺しそうなタイプかも(笑)。

…昔、好きだった歌舞伎役者さんが、自分の役に対するコメントで言っていた言葉があります。「絵になるように」。なぜかそんなことを思い出しました。その役は心理的な背景などない、ただそこにいるだけの脇役で、まさにティピカルな構図の部品というべきものでした。歌舞伎はこういう構造が基本になっています。それまでは、演技というと、キャラの心理とか深みとかいうことが大事なのだと思い込んでいました。脇役で設定がなくてもキャラの生い立ちまで考える、というようなアプローチを「すごい」と思っていた頃でしたので、カウンターパンチをくらったような気分でした。

「絵になるように」。じつはこれが大切で、むずかしいことでもあると実感したのは、そのあとだいぶ経ってからのことでした。心理を掘り下げるというアプローチと、「絵になる」こと。矛盾しないことでじつは根本はひとつですが、このバランスをとるのは本当に難しいと思います。でも成功していると観客としては至福の時間を味わえます。リチャード・ドナー版は、あきらかに「絵になる」流れでまとめた作品で、それとして成功していました。その要素を踏襲した「お祭り」の部分と、現代的な「掘り下げる」アプローチをミックスする点で、新作はトーンにバラつきが出てしまった感がありました。ドナー版を見たあとの、こちらの期待もあったでしょう。鑑賞の環境が良くなかったので(泣)、いくつかあった疑問点は自分の見落としのせいである可能性もあります。いろいろ物足りないところを指摘してしまいましたが、ビジュアルに関しては圧巻でした。もう一度、「これはこれ」として鑑賞してみたい作品です。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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