『You Can Touch Me. ~グリンペンの夜~』 より
"The Hounds of Baskerville"(バスカヴィルの犬たち)。
今夜解決したばかりの事件に、ジョンはそうタイトルをつけた。書きかけのブログはこの土地の説明で手間取っている。
荒涼と広がり、不思議に美しいダートムアの原野。そして観光客を受けいれる小さな村グリンペン。霧の漂う夜の荒れ野を見た者でなければ、この事件が依頼人に与えた恐怖を本当に理解することはできないだろう。そして自分たちが体験した恐怖も。…かんたんには書けない。これをアップするのはロンドンに帰ってからになるだろう。
グリンペンの田舎宿のパブは、観光客と地元の客でそこそこにぎわっていた。みな他愛ない話に興じている。事件の顛末が公表されれば、村はその話題でひっくり返るにちがいない。だが幸いなことに、そのころにはジョンもシャーロックもここにはいない。
窓際のテーブルでノートパソコンに向かっていたジョンに、男が声をかけた。
「一杯やらないか」
振り返ると、行楽着のレストレードがポケットに手を突っ込んでほほえんでいた。
「OK」
ジョンはノートパソコンを閉じた。レストレードはカウンターで二人分のエールを受け取り、ジョンのテーブルに戻ってきた。
「シャーロックは一緒じゃないのか」
「上の部屋にいるよ。一人になりたいっていうから僕だけ食事にきた。きっと揺り戻しがきてるんだ」
「揺り戻し?」
「事件を解決すると、なんていうか…気分の起伏が…バランスをとろうとするんだろうな。必要なんだ」
ジョンは手のひらを下に向けて左右に傾けて見せた。
「ああ、現場ではかなりハイだったからな」
「今日はいてくれて助かった。彼も感謝してる…と思う」
「感謝?俺に?まさか」
「口が裂けても言わないけどな」
「ふん」
レストレードはまんざらでもない顔をしてグラスに口をつけた。警部は警察の仕事ではない今回の事件に、個人的に手を貸してくれたのだ。
明日の予定を話しているところへ、小柄な愛嬌のある男が小さい紙包みを持ってきた。うすい髭がなければ子供に見える、コックのビリーだ。
「はいよ。かっこいい彼氏の夜食ね」
ビリーはウインクして包みを差し出した。
レストレードがおもしろそうな顔をしたのを横目で見ながら、ジョンは包みを受け取った。
「ありがとう」
ビリーが離れるのを待って、ジョンは小声で言い訳した。
「説明しようとするとかえって疑われる」
「患者と主治医だって言えよ。間違ってない。…いっそ本当にカップルなら、むしろすっきりするがね」
ジョンはおどけて目を丸くすると、首を振った。レストレードは笑い、すぐに真顔になって小声で言った。
「…だが奴は、ますます手に負えなくなってるんじゃないか?」
「なぜ。そう見えるか?」
「主治医がやつれてる。休暇がほしいって顔だ」
「……」
ジョンは苦笑いしてグラスを持ち上げた。
(後略)
* * *
(中間部)
部屋は冷え切っていた。シャーロックはジョンが部屋を出たときのまま、ソファの上で両足をかかえ、宙を見ながらなにかつぶやいていた。暖炉に火はなく、スタンドの灯りだけが彼の横顔を浮かびあがらせている。
「あー…サンドイッチが…あるけど」
「いらない」
シャーロックはジョンを振り向きもせずに答えた。小さな声は独り言のように聞こえた。
「そうか」
ジョンはふと立ち止まってシャーロックを見たが、つとめて何気ない風を装った。
「…下でレストレードに会ったよ。明日一番の列車でロンドンに帰るって」
シャーロックは両手をあわせて口の前にそろえた。
「もちろんだ。急いで報告に帰るのさ」
「やめろよ。彼は休暇を切り上げてきてくれたんだぞ。まさかまだマイクロフトの差し金だと…」
「…思ってるんじゃない。わかってるんだ。たった今さんざん説明したじゃないか」
ジョンは眉をひそめた。シャーロックはまた、自分がいない間も「ジョンに向かって」しゃべり続けていたらしい。「悪化してる」というレストレードの言葉が思い出された。ジョンはシャーロックの正面にかがみ込んだ。シャーロックは宙を見たままで、目の前のジョンを見ようとしない。
「シャーロック。聞いてない。僕はいなかった」
「いなかった?大事なことを話したかもしれないのに」
「一人になりたいと言ったのは君だ」
「話しかけるなと言ったんだ」
「それで僕に話してたっていうのか?」
「そうだ。ちゃんと聞いてろよ」
ジョンはうつむいてため息をついてから、気をとりなおしたように言った。
「シャーロック。僕はこの部屋にいなかった。わかってるか?」
シャーロックはやっとジョンを見た。
「…どれくらい?」
「ああ…」
ジョンは腕時計を見た。
「二時間くらい」
「二時間」
シャーロックはまた視線をおよがせた。
「シャーロック?僕はここだ」
「そんなことわかってる」
シャーロックはうんざりしたように首を振った。
「ちゃんと見えてる。声も聞こえてるよ、ドクター」
「…もう寝たらどうだ?明日はゆっくり休んでから帰ろう。なにも急ぐ理由はないし、この二日間はハードだったし…」
「いや、看護婦(ナース)」
「え?」
「君はナースみたいだ」
「いいや、乳母(ナニー)だね」
「…気分がわるい」
「人間は疲れるとそうなる」
「疲れてなんかいない。おもしろかった」
「かっこつけるな。怖かったろ」
「なにが。犬が?あんなもの」
シャーロックはあざけるような笑みを浮かべた。ジョンは首を振った。
「ちがう。君が言ったことは覚えてる。怖いと言ってた」
自分の目を信じられなくなること。彼はそれを恐れていた。
シャーロックは落ち着かない様子で、しきりに部屋のなかを見まわし始めた。
「…二時間?」
「ああ」
ジョンは目を細めてシャーロックを観察した。視線をあちこち動かしながら、八つ当たりするようにソファの肘掛けをたたいている。
「二時間も?気づかなかったぞ。なぜだ」
「疲れたんだよ、スーパーマン。それだけだ。シャーロック。シャーロック」
いつもなら、まだやりとげた仕事の満足感にひたっているはずだ。なのにこの落ち着きのなさはどうだ。彼はまた部屋のなかを見まわしている。ここが住み慣れた部屋でないのがいけないのか。ジョンは室内をながめた。天井の低い、民家風の部屋。わざと古びた色にみせかけたチェストや揺り椅子も、暖かい色合いのクッションも、絵に描いたような「カントリーサイド」風だ。だがシャーロックにはよそよそしいだけだろう。本の山も実験道具もない。…大好きな頭蓋骨を、なぜおしゃぶり代わりに持たせなかったんだ?ナニー。ジョンはシャーロックの右手をとり、自分の腕に触らせた。
「今日はよくやったよ。もう終わった。僕たちは今ここにいる」
「二時間もいなかったって?」
「…今はここにいる」
シャーロックはカーテンを引いていない窓を見た。鏡のように部屋の中の二人を映している。のっぺりとした自分が眉をひそめてこちらを見返し、窓枠のなかでジョンの袖をにぎっている。彼の目のまえにもべつのジョンがしゃがんでいて、彼の顔を見あげている。シャーロックは深く息を吸った。
「君ならどうやって証明する?ここにいる君が本物だって」
ジョンはつとめて無表情を作りながら首を振った。証明?なんてこった。たしかにこれでは「患者」だ。
「わからないな。君ならどうする?」
ジョンは意識して、たいして興味もなさそうに言った。
シャーロックは袖をにぎったまましばらく部屋を見まわしていた。やがて袖から手を離し、ジョンを見た。そしてゆっくりと手を伸ばしてジョンの頬に触れた。ジョンはシャーロックをみつめたままゆっくりうなずいた。
「いいよ。確かめろ」
シャーロックの顔は、いつもより幼く見えた。彼はジョンの頬を無遠慮につかんだあと、力をぬいて指先で撫でた。
「ジョン」
「なんだ」
話しかけたのではなかった。答えるかどうか確かめたのだ。
長い指がゆっくりこめかみにのぼり、耳を通って下り、指をかえして爪の甲であごをこすった。ジョンはかすかに首をかたむけてその指に顔を沿わせた。
…自分に会うまえ、シャーロックは一人の時間をどう過ごしていたのだろう。自分がいなくても、彼は架空の友達(イマジナリー・フレンド)に向かって話していたのではないだろうか。もしそうなら、その架空の友達と自分の違いはなんだろう。彼にとって違いなんかあるのだろうか…。
ジョンは目を閉じた。顔を撫でまわすシャーロックの指は冷たかった。その指が耳の後ろの髪をかきあげ、そのまま側頭部をつかむと、左手をそえてジョンの頭をはさんだ。ジョンが目をあけると、迷子のような顔が見おろしていた。
「どうした?」
シャーロックは答えなかった。ジョンの頭を離し、折り曲げた指の背で鼻すじに触れた。触れた先をぼんやりと追っている薄青い目を、ジョンは見つめた。こうしている間にも、彼はどんどんどこかへ離れていくようだ。やめておけ。役にたたないセラピストのまねなんか。自分にどうにかできるなんて思い上がりだ。
ふいにシャーロックがいつもの無頓着な調子で言った。
「肩を見てもいいか」
ジョンは我知らず顔をしかめた。
アフガニスタンで負った傷は、不良処置のため目立つ痕跡を残していた。ジョンは職業柄、もっとひどいものは山ほど見ていた。だからそんなことは気にしていないつもりだった。
だが、ガールフレンドがこれを見て気味悪がったり、即席のナイチンゲール症候群に陥ったりするのにうんざりしていた。いずれも自分の反応を隠そうとし、妙にやさしくなり、次に会うときには距離ができている。人は見た目に損なわれた部分を見つけると、人物そのものを「損なわれたもの」とみなす。そういうものだ。彼女たちに悪気などない。しかし自分をあたかも「弱いもの」のように扱われると、ジョンは抑えられない怒りを感じた。どうしようもなかった。
彼は人前で着替えるのを避け、一人でも裸のときは鏡を見なかった。もちろんシャーロックにも見られたことはない。シャーロックはジョンの顔から手を離した。
「いやならいい」
「…かまわないよ」
ジョンは立ちあがってジャケットを脱ぎ、きびきびとシャツのボタンをはずし、襟をはだけてさっと左の肩を出した。
「ほら」
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