お試し読み

(10) 雨の日のために

二次小説(R18)
雨の日のために

(A5・プリンタ印刷・44ページ)
500円 2013年6月発行

ちょっと珍しい(?)レストレード/ジョンで、
ライヘンバッハ後のジョンのシャーロックへの想いを絡めたシリアスものです。
(既刊『I AM YOUR MAN -Short Stories-』の続編になります。
ストーリーは続き物ではなく、人物関係のみ引き継いでいます )

目次

『彼を信じてる』・・・・・・・・・・7

『雨の日のために』・・・・・・13

あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・40

 

 

小説本文見本 (『雨の日のために』冒頭部分約4ページ分です)

銃声。
ガラスが割れる音。
女の悲鳴。
音楽が変わる。画面には70年代風のタートルネックを着た刑事が映り、パトカーのサイレン。刑事はアメリカのアクセントで無線機に怒鳴る。音楽が大きくなる。
レストレードはリモコンに手をのばした。ジョンが言った。
「つけとけよ」
「落ち着かないだろ」
「集中したくない。こんなこと最低だ」
そう言って、床に置かれたクッションに額を押しつけた。レストレードは少しだけテレビのボリュームを下げた。
「じゃあなんで来るんだ」
「来てほしくないなら連れてくるな」
「いやならついてくるな。無理に誘ってない」
「…奥さんは?また奉仕活動?熱心だな、教会に泊まり込みで」
レストレードは黙り込んだ。妻はまた外泊だ。また。

ジョンは悪くすると…いや、確実に、彼の死んだ親友より残酷なことを言ってのけた。警部にもそれが最近わかってきた。シャーロックは人が傷つくことを平気で言った。だがそれは、言葉がどう受け取られるかを気にしていなかったからだ。ジョンは意識して突き刺す。警部はため息をついてから言った。
「こういうときに憎まれ口はよせ。後悔するぞ」
「なにを。逮捕でもするのか?」
「そうもできる」
「手錠?悪趣味だ」
「このやろ(ファック)…」
ジョンは鼻先だけで吹き出した。レストレードはリモコンを置いた。ジョンは退屈そうに言った。
「さっさとやろう」

 

*   *   *   *   *

 

ジョンが立ち上がってジーンズをあげるのを、レストレードは横になったまま見ていた。
「一度も脱がないな」
「ん?」
「シャツ」
「ここは寒い」
「嘘つけ。汗かいてる」
「いつでも氷河期だろ、この家は」
ジョンはまた冷えきった夫婦仲を当てこすった。レストレードは露骨に傷ついた顔をしてまた黙り込んだ。ジョンが妻の留守にこの家にくるたび、二人は文字通り傷つけ合うようなことばかりしている。
「…そっちがわるい。言わせるな」
ジョンは髪をくしゃくしゃとかきむしると、そのまま裸足でバスルームまで歩いていった。すっかり勝手を知った警部の家。

水色のタイルで縁取られた大きな鏡の前で、ジョンはシャツを脱いだ。レストレードがつけた爪の跡が腹に残っていた。今日のものではない。そして赤みは薄らいだものの、まだいびつに引きつれている肩の傷跡。
これを誰にも見せなければ思い出が守られるように、ぼんやりと思っている。この醜い傷跡に口づけした誰かの。エロティックな意味などまるでなく、真の意味では口づけでさえなかった。ジョンは眉をしかめ、急に寒くなったように自分の体を抱いて視線を床におとした。

背の高い彼に抱きすくめられると、自分はすっぽりと包み込まれるようだった。だがあのときの彼は、怖い夢を見たと親に抱きつく子供のように小さく思えた。…目の前には彼の縮れた黒い髪があった。耳に触れるほど鼻を寄せて匂いを吸い込み、ここにいる「友達」が幻でなく、質量と体温を持つことを確かめようとしていた。…ジョンは目をとじた。

首と肩にかかる彼の息と、不慣れに自分の背中を撫で回す手の感触が甦った。旅先の夜のよそよそしさが、ロンドンの慣れた部屋での彼とは別人にさせていた――。…そして柔らかな唇が、間違ったようにこの傷跡に触れた。
その瞬間、それがどんなに必要なことであったかわかった。彼にとって、そして自分にとって。どう埋めたらいいかわからなかった空白が、そのとき満たされた。

…ジョンは目をあけた。ばからしい感傷。こんな思い出にしがみついてどうする。ひとりごちて頭からシャワーを浴びた。頭の中身も排水口に流れていけばいい、と思いながら。

ジョンは決して、一人で過ごすことが耐えられない人種ではない。だが否応なく再生する記憶と、目の前にいてなにもできなかった無力感の余韻は、目の前の唯一のなすべきこと…自分一人を養うという…に集中することを妨げた。夢遊病者のように、心ここにあらずで仕事を選んでは、長続きせずやめていた。今いる職場も、いつまで続くか自信がない。

…タブロイド紙など読まない層には、あの事件はたいした印象を残していない。たとえ耳にしていたとしても、その偽探偵の元相棒に…「親友」に騙されていた哀れな男に…興味を示すのは品のない行為だと思っている。ジョンが選んだ医療関係の職場には、そんな人々が多かった。
それは幸いではあったが、何も知らない…あるいは知らないふりをしている人々と、仮面をつけて接する日々は、チリが積もるようなかすかな苦痛をジョンに与えた。それが耐えきれなくなると職を辞し、一人でその記憶に翻弄され、耐えられなくなってはまた別の職場を探した。そんな状態ではつきあう女性を見つけることもできなかった。

すべてを「知っている」警部といるときには、その微温の苦しみから逃れることができた。ましてや頭のなかが真っ白になる瞬間には。まったく情事などではなかった。こんなことをしていながら、いまだにキスもハグもしたことがない。
ただ、それは淀んだ水のような日常に溺れもがくなかで、必死で水面に顔を出すような瞬間だった。初めてこの家で朝まで過ごしたとき…それは逢瀬としては(こんなものが逢瀬といえるなら)二度目だったのだが…あの事件後初めて、ジョンは熟睡したのだった。

それは警部にとっても同様だった。あの事件以来、仕事場も家も、いっそう神経をすり減らす場所になった。もともとすきま風が吹いていた妻との距離も開く一方だ。
その鬱屈が、ジョンに電話をかけたきっかけだったのは確かだ。…だがおかしな気晴らしなど二度とする気はなかった。あれは一度きりの間違いだったと、お互い確認していたはずだ。
…それなのに二人は、あたり前のようにそれを繰り返した。憎まれ口をたたきながら。そしてすぐにシャワーを浴びて、自分から温もりの痕跡を消そうとした。

ジョンが髪をタオルで拭きながら居間にいくと、警部は何事もなかったようにいつもの苦笑を向けた。入れ替わりにシャワーをすませる間にジョンが冷凍食品をレンジに放り込み、二人でいつものようにラガービールを飲んで、黙ってつまらないテレビを見た。…話すことがないのだ。

あの事件以来、警部は妻への愚痴をジョンに聞かせない。ジョンには愚痴を作るあてがないことを思い出させないように。だからすぐに話すことが尽きてしまう。おかしな「気晴らし」で時間をつぶすことになる。

外は雨だ。日は長い季節でまだ薄明るいが、この時間になると人通りも少ない。テレビには先日のデモの映像…マーガレット・サッチャーの葬儀を国の予算で行うことに反対する人々…の映像が流れ、暴言が売りのタレントが面白おかしくコメントし始めた。
警部はその映像で思い出したように口を開いた。
「そうだ、この前聞いたんだが…」
ジョンは気のない様子で、テレビを見たままビールの缶を持ち上げた。レストレードは続けた。
「…マイクロフト・ホームズが引退するそうだな」
ジョンの手が止まり、警部を振り返った。
「ほんとか」
「君ならもう知ってるかと思った」
ジョンは首を振って缶を置いた。
「知るわけないだろ。君みたいに仕事のつながりがあるわけじゃない。あれ以来会ったこともない」
「引退は仕事じゃない」
ジョンは癖になっている皮肉な笑みを浮かべた。
「仕事じゃない?とんでもない。あらゆることが仕事がらみじゃないか。あの人は自分の…」
ジョンは言いかけてやめた。急に自分の言葉が熱を帯びたのに気づいたのだ。ジョンは気まずそうに咳払いして、ビールを一口飲んだ。

……

 

 

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